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市町村の変遷

 江戸時代末期、三重県には1800以上もの村があったといわれています。
 その後、1889(明治22)年の市制・町村制施行以降、幾度かの市町村合併を経て、現在三重県には村はなくなり、14の市と15の町が残っています。
 市町村制施行によってどのように三重県の市町村が確定され、その後どのように合併を繰り返し現在のかたちに落ちついたのかを振り返ります。   
     
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 戦後、日本国憲法の制定とともに地方自治の強化がうたわれ、住民に近い市町村に消防・社会福祉・保健衛生などの業務が任されることになりました。なかでも戦前は県の担当だった中学校の運営が、新制中学の設置とともに市町村の担当となり、合併促進の大きな要因となりました。
 これらの新たな諸業務を処理するためには自治体の合理化が必要とされ、とくに中学校が継続的に運営できる規模として、人口約8000人を標準として市町村の合併が進められたのです。
 1953年(昭和28)年の町村合併促進法施行、1956(昭和3)年の新市町村建設促進法などが制定され、三重県では1953年には274あった市町村数が1956年では80にまで減少しています。
 その後も小規模な合併が続きましたが、1973(昭和48)年を最後に以後30年間合併は行われませんでした。


※参考文献:
昇秀樹『地方自治の軌跡と展望』第一法規2006年 
三重県総務部地方課編『三重県町村合併誌』三重県総務部
地方課1959年


 1995年には合併特例法の改定、地方分権推進法の成立。1999年には地方分権一括法の成立。これらの法律には、住民の直接請求により合併協議会が設置できる制度や市町村の政令指定都市や市への昇格条件の緩和、合併特例債などの政府による行財政面での支援などが盛り込まれ、2003(平成15)年から2005(平成17)年にかけて合併の動きは最高潮を迎えました。 これらの法律により国が決定していた多くのことが地方の裁量に任されることになり、例えば小中学校の運営に関しては、通学区域の指定や学級の人数編成など今までは文部省が決めていたことを市町村が独自の判断で決定できるようになりました。
 紀宝町は居住地域に関係なく学校を選べる学校選択制を導入して全国的に話題になりました。
 そのほかにも介護保険の運営や用途地域の決定など今までの数千人規模の自治体では効果的な運営が困難な課題が多く、合併への動きに拍車がかかったのです。



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