1907 |
▽大阪医学校(現・大阪大学)の医長であった大西鍛氏(津市出身)ら、医師5〜6人の集まりが大阪三重県人会へと発展。初代会長には大西鍛氏が就任。 |
1908 |
▽会員も次第に増員し、30人程度となる。この中には朝日新聞社社長村山龍平氏(度会郡玉城町出身)、御木本真珠の重役鈴木弥助氏(鳥羽市)、弁護士村松岩吉氏(北区西天満、後に2代目会長)、京阪電鉄社長太田光熈氏(伊勢市出身)をはじめとする多才な会員を迎え,会に一層の活気とにぎわいを添えた。 |
1921 |
▽第3代会長弁護士岡八氏(津市出身)の在任当時、前出の鈴木弥助氏の努力により、真珠王御木本幸吉氏の後援を得、春秋2回の総会には必ず御木本氏も出席。その度に会への資金協力を得た。運営にも余裕が生まれ、天王寺公園南口の桃太郎における総会や、浜寺公園における家族連れの園遊会の催しなど好評を得た。 |
1923 |
▽会員数も100人を超え、県人会の規模が整った。全会員家族同伴で伊勢神宮に参拝し相互の親睦を深めた。県出身の政治家、尾崎行雄氏や井野硯哉氏による時局講演会なども開催した。 |
1937 |
▽突如として支那事変勃発。<7月>◇その後戦域が拡大し、世界大戦突入。時局の影響から、大阪三重県人会の活動も中止を余儀なくされる。 |
1945 |
▽戦後、街の復興も着々と進行し、徐々に人心も世相も平和を取り戻すようになった頃、大阪読売新聞社社長中谷良太郎氏(13代会長、大台町出身)、イーグル魔法瓶製造(株)社長岡田達三郎氏(四日市市出身)等の有志によって県人会再建計画が進む。 |
1951 |
▽大阪府南区「いろは」にて発起人会が開かれ、県人会再開について議論した。新会員側からは「大阪三重県同志会」として新会を発足させる案も出たが、大阪に二つの三重県人会ができることは今後しこりを残しかねないという旧会員側の指摘で一本化に意見が一致した。 <6月16日>
▽大阪府南区「陽貴亭」において復興第1回の発会式を挙げ、第9代会長に高士政郎氏(都島自動車(株)社長、津市出身)を選出。大阪三重県人会が再発足。<10月21日> |
1953 |
▽高士会長が健康上の理由で辞任。後任に第10代会長として加藤清治氏(岡三証券(株)社長、津市出身)を選出。事務所も同社3階の1室を借り、同社常務取締役伊藤徳三氏(松阪市出身)を副会長、会長の補佐役として県人会事務全般を同社総務課長前川圭二氏(津市出身)が担当。<10月>▽会員数も300人を超え、尾崎行雄氏、御木本幸吉氏を顧問として迎えた。 |
1955 |
▽県人会報創刊。田中覚三重県元知事の祝辞を掲げ、懐かしい郷土の近況を会員に知らせた。<7月>
▽在阪県人会有志が甲子園に出場する四日市高校ナインの宿舎を訪れ、激励。<8月7日>◇四日市高校は三重県勢初の全国優勝を果たした。<8月17日> |
1956 |
▽第1回の郷土訪問旅行を行い、神宮参拝、鳥羽湾見学等について地元伊勢市・鳥羽市の歓迎を受けた。<9月> |
1959 |
▽大阪府八尾市に三重県大阪通勤寮が完成。<4月>◇当会では京阪神方面へ就職する新規学卒者のために、三重県当局へ通勤寮の設立を陳情し、実現にこぎつけた。▽伊勢湾台風で郷土が甚大な被害を受ける。<9月26日>◇当会では会員総動員で衣服・食料品・野菜・薬品等を多数集め、県へ送り県民の救済にあたった。 |
1960 |
▽総会において、第11代会長として葛西丑松氏(チトセ(株)社長、四日市市出身)が満場一致で選出される。 |
1961 |
▽本会創立60周年を迎え、功労者表彰や種々の記念行事も開催。 |
1963 |
▽葛西会長が老齢のため辞任。後任の12代会長として行岡忠雄氏が推薦される。行岡病院長、行岡保健衛生学園長、大阪市議会議員等兼任による多忙を理由に固辞するも、役員一同の懇請により受諾。<11月30日> |
1964 |
▽会員増加運動を実施。既加入会員の熱意により会員数の積極的拡大に成功。会員数は一躍、千数百人に到達した。
▽現・三重県庁舎が落成。<4月20日>◇本会では募金を募り、県に協力した。 |
1966 |
▽本会では田中知事への陳情など廃止が計画されていた大阪三重県事務所の存続運動を行う。◇三重県大阪事務所は廃止される。<5月1日>◇しかし、本会の尽力により大阪市中央区中寺町へ場所を移し、看板を残して「三重県大阪連絡所」として開所した。<5月6日>
▽上清隆氏(日本電通社長)を奉曳団長として、伊勢神宮御遷宮による御用材奉曳の奉仕に、会員・家族約300人が参加。<5月14日>
▽葛西第11代会長が黄綬褒章を受けたことに際し、大阪三重県人会有志28人が打ち出の小ヅチの置物を贈った。
▽大阪三重県人会の機関誌「大阪三重県人会報」創刊号が発行。タブロイド4ページ判で会員、地元三重県、東京、京都、神戸各県人会方面へ配布された。<9月> |
1968 |
▽会員名簿改訂版が発行<10月> |
1969 |
▽大阪、京都、神戸県人会の連合懇談会が京都市東山区智恩院前の楠荘本館で行われた。大阪三重県人会からは16人が参加。<5月5日> |
1970 |
▽万国博覧会“三重県の日”に大阪、京都、神戸、各県人会の役員約100人が参加した。<4月8日> |
1971 |
▽大阪三重県人会総会を実施。創立65周年、戦後再建20年の記念事業として14人を功労者表彰。<11月21日> |
1973 |
▽第60回伊勢神宮式年遷宮に会員および家族300余人が参加した。 |
1974 |
▽6期(11年半)の長きに亘り、会の発展に尽力した行岡忠雄第12代会長が死去。<5月> |
1975 |
▽第13代会長に中谷良太郎氏(大阪産業(株)、奈良温泉観光(株)会長、大台町出身)が就任。<2月24日>
▽第30回三重国体に賛助。<9月〜10月>▽第11回全国身体障害者スポーツ大会を賛助<11月> |
1980 |
▽菰野町にて開催された第31回全国植樹祭に賛助。<5月> |
1984 |
▽第4回全国豊かな海づくり大会を賛助<10月> |
1989 |
▽第14代会長として杉山四郎氏(杉山硝子店代表取締役、板硝子商連会長、藤原町出身)が就任。<11月3日> |
1990 |
▽7期(14年)の長い年月、本会の繁栄、会員拡大に貢献した中谷良太郎第13代会長が逝去。<4月>
▽国際花と緑の博覧会(平成2年)の「三重県の日」に協賛参加。▽「三重観光一座丸」事業に協賛参加した。 |
1994 |
▽まつり博を会員・家族264人が見学した。 |
1999 |
▽杉山会長が高齢を理由に辞任。後任の第15代会長として更家章太(サラヤ(株)代表取締役会長、熊野市出身)が就任。<1月> |
2002 |
▽大阪三重県人会便りを年に一回発行を開始。<10月>▽第16代会長に村田吉優氏((株)サイネックス社長、松阪市出身)が就任。<11月10日> |
2003 |
▽平成15年度総会を開き、更家章太前会長を名誉会長に選任。<11月29日> |
2006 |
▽関西伊賀人会と共同で年次総会を開催。<10月14日> |
2007 |
▽大阪三重県人会100周年記念事業として伊勢神宮お木曳きツアー、記念植樹を実施。<5月26日>
▽大阪三重県人会100周年記念総会を実施。功労者を表彰。<11月10日> |