羽生市の名所・文化
受け継がれる 羽生の歴史と文化
羽生市で受け継がれる史跡や文化財と、歴史に貢献した偉大な先人達をご紹介します。また羽生は、小説『田舎教師』(田山花袋 著)の背景に描かれ、各所にゆかりの場所があります。
史跡・文化財
武州藍染技術(県指定無形文化財・技術保持者)
大字小松 中島安夫氏(昭和62年3月24日指定)
中島安夫氏は4代目鶴吉を襲名し、江戸時代天保年間から続く中島紺屋の当主として伝統技術の保存に努め、長年の経験と技術により化学染色では出せない武州藍の微妙な色合いを生み出しています。
所在地 | 羽生市大字小松223(中島紺屋) |
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アクセス | 東武伊勢崎線「羽生駅」から車で5分、東北自動車道「羽生IC」から10分 |
関連サイト | 藍染めのふる里 武州中島紺屋 |
川俣関所跡
大字上新郷(昭和36年9月1日指定)
川俣関所は慶長年間に設けられたもので、後に忍藩に属しました。江戸に人質になっている諸大名夫人の脱出を防ぎ、また江戸の安全のため鉄砲の持込みを取り締まりました。
所在地 | 羽生市大字上新郷 |
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アクセス | 「新郷駅」から徒歩30分 |
関連サイト | おらがむらの宝物 |
木造薬師如来坐像(永明寺)
大字下村君(昭和33年3月20日指定)
ひのきの寄木造、玉眼、漆泊からなり、左手に薬壺を持った通例の薬師像です。平安末期の定朝様(じょうちょうよう)の作風が残された美しい像です。像高は84.8センチメートルで、像内背面に貞治6年(1367)に造立されたとの墨書銘があります。
※埼玉県立歴史と民俗の博物館所蔵写真
所在地 | 羽生市大字下村君(永明寺) |
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関連サイト | おらがむらの宝物 |
毘沙門山古墳
西1丁目
墳長67、高さ5、後円部径31.5メートル、前方部を西に向ける前方後円墳です。近年、大正大学の調査によって、角閃石安山岩使用の横穴式石室と推定され、6世紀後半のものと考えられています。
所在地 | 羽生市西1丁目(古江宮田神社付近) |
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関連サイト | おらがむらの宝物 |
勘兵衛マツ
大字上新郷(大正15年2月19日指定)
上新郷の宿通りから利根川畔別所地区に通ずる県道の西側に、松並木があります。この松並木は、寛永5年(1628)徳川家光が日光社参のおり、忍城主がその家臣勘兵衛に命じて植えさせたものであるといわれています。
上新郷の新井家に残る文書には、明治8年に69本を数えたとありますが、現在は1本を残すだけとなっています。
所在地 | 羽生市大字上新郷 |
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関連サイト | おらがむらの宝物 |
羽生の偉人
羽生の地に生き、未来を切り開いてきた人々。
偉人達の軌跡を振り返る。
関連サイト | おらがむらの宝物 |
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清水卯三郎(しみずうさぶろう・1829~1910年)
国際交流の先駆者
文政12年(1829)3月4日、造り酒屋清水弥右衛門誓一の三男として、現在の羽生市中央4丁目に生まれる。
文久4年(1864)には薩摩藩の大久保利通に依頼され、薩英戦争の和平斡旋にも尽力。慶応3年(1867)のパリ万国博覧会には商人としてただ1人参加。刀剣、陣羽織、酒、醤油、鏡、人形などを出品し、ナポレオン三世から名入りのメダルを賜りました。帰国後は、歯科医療器具の輸入や関連書籍の翻訳など、歯科医学の発展にも貢献しました。
明治43年に82歳の生涯を閉じ、東京都世田谷区の乗満寺に葬られていましたが、平成10年11月6日に卯三郎の先祖が眠る「正光寺」(北2丁目)に移転しました。
小沢愛次郎(おざわあいじろう・1863~1950年)
武道を正課体育に取り入れた人物
小針(行田市)に生まれ、桑崎村小沢家の養子となりました。小野派一刀流を修行し、奥義を極めた後、明治21年に自邸内(桑崎)に「興武館」道場を設けました。
明治23年から31年まで埼玉県議会議員を務め、31年の第5回衆議院議員に初当選し、さらに第7~10回の総選挙で衆議院議員を務め、5期にわたり国政に当たりました。武道を正科体育に取り入れるために努力し、明治39年3月にはその方針が議会で可決され、大正年間から正式に実施されました。
大正6年5月、吹上御所での天覧試合に出場しました。
岡戸文右衛門(おかどぶんえもん・1835~1906年)
学校の開設に尽力
手子林村出身。「学問や教育は身をたてるもとであり、産業を盛んにすることに欠かせない。」と有志者と寺院などを借りて学校の開設に尽力しました。
明治19年中学校令公布で北埼玉郡立中学校が廃校になったのを憂慮し、多門寺村(加須市)の網野長左衛門と協力して郡内有志を説得し、私立埼玉英和学校を創設してこれを引き継ぎました。明治30年には埼玉尋常中学校に、大正10年には県立に移管されました。これは、現在の不動岡高等学校の前身です。
小説『田舎教師』と羽生
四里の道は長かった。その間に青縞の市の立つ羽生の町があった。
田山花袋作『田舎教師』より
田舎教師の道
「四里の道は長かった。その間に青縞の市の立つ羽生の町があった」で始まる小説『田舎教師』。この作品は、実在の人物小林秀三が書き残した日記をもとに田山花袋が克明な取材を行って書き上げた小説で、登場人物はほとんど実在した人々です。明治30年代の羽生の自然や風物、人間模様が生き生きと描かれており、主人公林清三を中心にした香り高い青春小説として、また、動植物が240種も登場し、小説としては希有であり、天然自然文学ともいえます。町並も道筋も変わっていますが、そこここに当時の面影を偲ぶことができます。
関連サイト | 田山花袋の小説『田舎教師』の舞台となったまち |
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『田舎教師』とは~あらすじ~
明治中頃、中学を卒業した主人公の林清三は貧しい父母を養うため進学を断念し、弥勒高等小学校の代用教員となる。上級学校へ進学しようとする友人たちをうらやましく思いながらも、清三は友人たちと同人誌「行田文学」を刊行。しかし、費用がかさむため4号で廃刊。上野の音楽学校の試験にも失敗し、清三は次第に無気力になっていく。そして、田舎で教師として歩むことを新たに決意するも病魔に冒され、まちが日露戦争の勝利に沸く中、一人さみしく20年の生涯を閉じる。
著者 田山花袋(1872~1930)
明治5年(旧暦明治4年12月)現在の群馬県館林市に生まれる。明治40年に小説『蒲団』を発表すると、日本の自然主義の確立者として、近代文学界に大きな影響を与えた。太田玉茗の妹と結婚したことから、たびたび玉茗のもと(羽生)を訪れた。晩年は歴史小説や心境小説に取り組んだ。
建福寺(小説では成願寺)
田舎教師のモデル小林秀三は、一時期ここに下宿し、死後ここの墓地に葬られました。作者田山花袋は、当時の住職太田玉茗の義弟にあたります。玉茗は新体詩を唱え、日本の近代詩史に名を残した詩人でもあります。作中、玉茗は山形古城、花袋は原杏花の名で登場します。大銀杏がそびえる寺内には、田舎教師ゆかりの旧跡が残されています。
田舎教師のモデルである小林秀三の墓
花袋は日露戦争後、この寺に太田玉茗を訪ねた折り、小林秀三の真新しい墓に気づきました。秀三を見知っていた花袋は心動かされ、残されていた日記に創作意欲をかき立てられました。「この日記は、あるいはこの小林君の一生の事業であったかもしれなかった。私はその日記のなかに、志を抱いて田舎に埋もれていく多くの青年たちと、事業を成し得ずに亡びていくさびしい多くの心とを発見した」と花袋は記しています。
所在地 | 羽生市南1丁目3-21(建福寺) |
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アクセス | 「羽生駅」から徒歩5分 |
関連サイト | 田山花袋の小説『田舎教師』の舞台となったまち |
弥勒高等小学校跡
「新しい先生は、何となく困ったような恥ずかしそうな様子に生徒には見えた」
20世紀最初の年、明治34年に小林秀三は、三田ヶ谷、村君、井泉3か村組合立の弥勒高等小学校に赴任しました。内心に愁いを抱えながらも、真面目な秀三は、生徒にたいへん慕われる教師でした。教えを受けた大越もん女史(作中:田原ひで子)の当時の作文帳には情熱を傾けて添削批評を加えた朱筆が残っています。また、授業料が払えない生徒に薄給の中から月々1円50銭を与え卒業させました。
田舎教師が羽生の人に愛されてきたのは、小説もさることながら、実在した「小林秀三先生」のやさしい人柄にもあずかっています。高等小学校跡の文学碑もまた、秀三を慕う人々の建碑です。
所在地 | 羽生市弥勒 |
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アクセス | 東北自動車道「羽生IC」から車で2分 |
関連サイト | 田山花袋の小説『田舎教師』の舞台となったまち |