益城町の名所・文化
歴史の重みを醸し出す文化財
益城町には多くの貴重な文化財があり、歴史の重要なポイントに触れることができます。まちを歩いて、益城町の歴史を紐解いてみましょう。
熊本の猛婦 四賢婦人記念館
益城町上陳に所在する「四賢婦人記念館」は、江戸時代後期に益城町杉堂に建てられた、惣庄屋矢嶋忠左衛門直明の旧家屋を移築したものです。館内には、矢嶋家や徳富蘇峰に関する古文書や生活用品を展示しています。
四賢婦人記念館
矢嶋家は、「熊本の猛婦」・「四賢婦人」と称され、近代日本における女子教育や婦人解放運動に尽力し、今日の男女共同参画社会の礎を築いた竹崎順子・徳富久子・横井つせ子・矢嶋楫子を輩出しています。矢嶋家は、幕末の思想家で明治新政府の参与となった横井小楠との関係が深く、長男直方(源助)をはじめ、矢嶋家姉妹の配偶者らも門下生として小楠に師事しました。また、雑誌『国民之友』、『国民新聞』を主宰した近代日本を代表する言論人徳富蘇峰も、文久3(1863)年に徳富一敬・久子夫妻の長男として、母方の実家であるこの家で生まれています。生前の蘇峰はこの家を訪れ、昭和27(1952)年には『生誕之記』を執筆し、潮井神社(杉堂)に記念植樹をしています。
所在地 | 益城町大字上陳436 |
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電話番号 | 096-286-4959 |
アクセス | 九州自動車道「益城熊本空港IC」より、「第2空港線」を阿蘇方面に約4キロメートル直進、益城町平田交差点を右折し「国道443道線」を御船方面に約3キロメートル直進、寺迫交差点を左折し「県道28号線」を高森方面へ約4キロメートル直進 |
関連サイト | 四賢婦人記念館 / 益城町 |
館内2階
館内1階
女性の地位向上に尽力した姉妹たち:四賢婦人のプロフィール
竹崎 順子(三女)
文政8(1825)年10月25日、矢嶋家三女として益城町に生まれる。横井小楠の高弟である竹崎律次郎(茶堂)に嫁ぐ。律次郎の事業失敗や横島新地(現 玉名市)の事業、肥後藩庁書記官への出仕、家塾「日新堂」の創設を献身的に支えた。律次郎死去後、キリスト教に入信し受洗。女子教育の必要性を提唱し学校設立案の「趣意書」を起草する。明治22(1889)年「熊本女学校」を創設。多くの人材を世に送り出した。明治38(1905)年、81歳の終焉まで校長としてその責務を全うし、現在も校母として尊敬されている。
徳富 久子(四女)
文政12(1829)年4月11日、矢嶋家四女として益城町に生まれる。横井小楠の高弟で明治3(1870)年の肥後藩政改革の中心人物、徳富一敬(淇水)に嫁ぐ。近代日本の言論人徳富蘇峰、小説家徳冨蘆花兄弟の母として厳格な家庭教育を実践。蘇峰は「私が一人前になり、強い信念が持てたのも、母の厳しさのおかげであった。」と感謝している。女子教育のための学校設立案を提唱し、姉順子の女子教育、妹楫子の日本基督教婦人矯風会活動を積極的に支えた。大正8(1919)年91歳没。
横井 つせ子(五女)
天保2(1831)年8月17日、矢嶋家五女として益城町に生まれる。安政3(1856)年26歳の時、思想家・政治家の横井小楠に嫁ぎ、明治維新への大業参加を支えた。「夫は天下人である。妻たる自分もできるだけ学問をして夫の名を辱めることがない様に」と励む。それに対し小楠は、「おつせは君子だ」と賛美の声を贈ったという。長男時雄は同志社大学第3代総長となる。時雄の妻は山本覚馬の次女峰子。長女みや子は同志社女学校設立に貢献し、同志社大学第8代総長海老名弾正の妻となる。またつせ子は、姉順子、妹楫子の女子教育・婦人解放運動を支えた。明治27(1894)年64歳没。
矢島 楫子(六女)
天保4(1833)年4月24日、矢嶋家六女として益城町に生まれる。安政5(1858)年、兄直方の勧めにより結婚するも明治元(1868)年離婚、矢嶋家に復籍する。明治5(1872)年、兄の看病のため上京。その途上「楫子」と改名する。兄のもとに住み小学校教員伝習所に学ぶ。苦学の末小学校・女学校の教師となる。明治12(1879)年、米国婦人宣教師ミセス・ツルーの影響によりキリスト教に入信し受洗。明治19(1886)年、「日本キリスト教婦人矯風会」を設立し、初代会頭に就任。元老院への「一夫一婦制」の建白書提出をはじめとし、婦人参政権・廃娼・禁酒運動等に尽力した。また明治22(1889)年、キリスト教系女学院(現 女子学院)を創立。初代校長となる。大正10(1921)年、89歳の高齢でワシントン平和会議に出席し、その功績を讃えられハーディング米大統領より記念の花器を贈られる。大正14(1925)年93歳没。従五位勲五等に叙される。
益城町の文化財
加藤清正禁制
慶長5年9月21日 絵本・絹表装 加藤清正黒印
関が原の戦いにおいて東軍についた加藤清正は、慶長5(1600)年9月19日宇土城にいる西軍方の小西行長の軍勢を攻撃する際、木山を攻略して一宿した。次いで赤井城の城代であった伊藤与左衛門を攻略して自害させ、翌21日にこの『三ヶ条の禁制』を木山腰尾町宛に出した。その後、加藤清正は木山に番兵を置き、隈庄(城南町)を攻略して宇土城の攻撃を開始した。
国中庄屋申出覚(細川忠利触書)
寛永6年12月9日 絵本・絹表装
細川氏が肥後入国直後の寛永9(1632)年12月9日に、木山の大庄屋木山市兵衛ら藩内の庄屋に布令したもので、県内に1点しか存在しない貴重な資料。内容は、「入国早々であるので加藤忠広時代のものを来年まで継承すること」、「年貢の免率も加藤時代の定めのとおりとする」、「来年(寛永10年)正月までに国の施政方針を出すので、それまで訴訟等は加藤時代と同様にする」、「偽りが判明したら庄屋の手落ちとする」等、藩主細川忠利の施政方針を示している。
木山氏系図・覚木山氏略系図之写
いずれも絵本・絹表装
天正期頃に作られた木山氏の系図。木山氏は、南北朝期の康永3(1344)年に木山松丸城(腰尾城)城主「木山太郎左衛門幸蓮」として初見する。木山幸蓮は、木山郷を母体とする在地領主層であったと思われる。この木山幸蓮の系譜は「前木山氏」とされ、南朝系に属し南朝阿蘇大宮司の支配下にあり、北朝方の今川了俊に攻略されている。その後の木山城主・赤井城主であった木山惟久(紹宅)に代表される木山氏は、「後木山氏」とされ、『木山氏系図』によると、木山信幸が阿蘇大宮司の招きによって北朝阿蘇家の家臣となり、木山に入部し益城郡内六ヶ庄五千貫余を拝領し、「木山信興・惟興・惟正・惟貞・惟久・信連・信正」への系譜と続く。
城の本古墳・城の本2号墳出土品
昭和58年・平成17年木山城跡より発見された古墳時代中期の箱式石棺内より出土した副葬品。滑石製勾玉12点・硬玉製勾玉1点・碧玉製管玉5点・内行花紋鏡1面・水晶製勾玉2点・碧玉製管玉17点
<城の本古墳群>
所在地 | 益城町木山地区・寺迫 |
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関連サイト | 城の本古墳群<木山地区・寺迫> / 益城町 |
お法使祭
約600年以上の伝統を誇る荒神輿
津森神宮の祭りで毎年10月30・31日に行われる。益城町平田・田原・小谷・杉堂、西原村瓜生迫・灰床・秋田・(土林、星田、田中、3村で一年)菊陽町戸次・馬場楠・曲手・辛川の順に、ご神体を1年間祀り12年で一巡する。起源については、天正時代(1573~1591)に大祭の時天皇のお使いが参詣したことから「お法使まつり」と呼ばれたと考えられている。神輿を受け渡しの途中で道や田畑に投げ落とす荒神輿で珍しい祭り。
<津森神宮>
所在地 | 益城町大字寺中708 |
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電話番号 | 096-286-2808 |
関連サイト | お法使祭<津森地区・福田地区> / 益城町 |