須恵町の名所・文化
須恵の歴史を現在に伝える
国営唯一の炭鉱の記念碑である「海軍炭鉱創業記念碑」、伝説の残る「守母神社」、江戸時代から始まった「須恵焼」、平安時代の伝教大師(最澄)の作と伝えられる観音像「十一面観音立像」など。須恵町に伝わる史跡・文化財などをご紹介します。
史跡・文化財
海軍炭鉱創業記念碑
明治21年に海軍予備炭山に指定されてから、昭和39年に志免鉱業所が閉山するまで、開坑から閉山まで唯一国営の炭鉱がこの地にありました。国内で良質の石炭を探していた海軍は、有事の際に採掘する鉱山として、新原の炭鉱を明治21年に海軍予備炭山に指定し、新原採炭所を置きました。のち海軍採炭所、海軍燃料廠採炭部、戦後は国鉄志免鉱業所と名称を変更しながら操業を続けました。
新原公園には、海軍炭坑に関する資料が集められています。ここは、昭和4年に志免町に燃料廠の庁舎が移転するまで、第4坑の庁舎が置かれていた場所にあたります。中央に位置する海軍炭鉱創業記念碑は、海軍炭坑の創業50周年を記念するシンボルモニュメントです。このほかに第三坑の坑口枠、海軍技師萩尾善次郎像、海軍炭坑第2坑竪坑址の道標など、海軍炭鉱の資料が現存する唯一の場所です。
所在地 | 須恵町新原 |
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アクセス | JR香椎線「新原駅」 |
高鳥居城跡と守母神社の伝説
資料館裏の登山道を登ること約1時間、岳城山の山頂平坦部が、中世の山城である高鳥居城です。永仁元年(1293)に築城されたと伝えられています。室町時代には大内氏の筑前守護代・杉氏の居城となり、大内氏が陶氏の反乱にあった際に城は落城し、守母神社の伝説が生まれたとされています。その後、天正十四年(1586)に、島津氏の北上の際に城に立てこもった星野兄弟を立花統虎(後の柳川藩主・立花宗茂)が攻め落とされました。
守母神社の伝説は、高鳥居城の落城にまつわる民話です。乳母が城主杉弾正の子を連れて麓の道林寺に落ちのびる途中、岩陰に潜んでいたところ、子の泣き声で見つかり捉えられてしまいました。最期の際、「自分が殺されても世の中の泣く子の味方となり守り続ける。」と誓ったことにちなみ、地元の甲植木地区では、乳母の無念の思いを汲んで、亡くなった地に守母神社を建て、夜泣きの神様「守母様」として大切に祀っています。
守母神社祭礼
毎年4月23日、24日の両日に行われます。昭和の森公園の中にある、夜泣き止め、子守の神社「守母神社」の祭礼です。参拝客はここで人形を借りて帰り、1年後には新たに人形を買い足して一緒に奉納します。子どもの健やかな成長を祈願します。
所在地 | 須恵町植木61 |
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関連サイト | 守母神社の伝説 - 須恵町ホームページ |
守母神社
須恵焼
須恵焼は、江戸時代の宝暦14年(1764)、肥前陶磁の影響の下で始まり、明治35年(1902)頃まで約140年間焼かれた磁器です。創始者は、福岡藩の寺社奉行に所属する新藤安平という武士です。新藤は、藩の鉱山関係の仕事に従事していた時に、須恵で焼物に適した土を発見しました。この土で焼き物を作れば、やがて藩の名産品となり、今までお世話になった殿さまに恩返しができると考え、須恵焼を始めました。個人事業から始まった須恵焼の生産は、後に福岡藩の藩窯(磁器御用窯)となり、須恵皿山役所が設置されました。幕末期には、藩の殖産興業に取り上げられ、技術の粋を尽くした製品が焼かれ、全国各地に流通しました。明治期に焼かれた金錆焼は、国内のみならず、海外まで輸出されています。窯跡は、大字上須恵に現存しており、県内では最大規模を誇ります。
所在地 | 須恵町上須恵 |
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電話番号 | 092-934-0030(社会教育課) |
アクセス | 西鉄バス「上須恵」下車、徒歩30分 |
関連サイト | 福岡藩磁器御用窯跡 - 須恵町ホームページ |
十一面観音立像
平安時代の伝教大師(最澄)作と伝えられる観音像です。像高175センチメートルで桧木の寄せ木で作られています。菩薩の顔と、頭頂部に如来面一つ、その周りに10の菩薩面が配されています。小振りの鼻と唇で、ふくよかな頬をしており、穏やかで清楚な印象の像です。
観音谷の地名はこの像から由来すると考えられ、伝教大師開基とされる建正寺の隆盛を示す、貴重な仏像です。年1回の御開扉で拝観できます。
十一面観音御開扉
木造十一面観音立像は、左谷山建正寺の本尊です。年に1回だけしか拝観できない県の重要文化財とあって、地元の人はもとより県内各地から多くの参拝客が訪れます。
所在地 | 須恵町佐谷617 |
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電話番号 | 092-934-0030(社会教育課) |
関連サイト | 佐谷建正寺 木造十一面観音立像(県指定文化財) - 須恵町ホームページ |
上須恵祇園山笠
約250年前に始まったと伝えられ、当時、須恵に疫病が流行したため、退散を祈願して祇園祭を催行し、以降疫病が収まったので毎年行うようになったと言われています。また、一説には、福岡藩の御典医で須恵出身の田原養全の提唱により始まったとも言われています。
飾り山は1週間前から公開されます。最終日、水法被姿の男衆が山笠をかついで駆け、人々の歓声が響きわたります。須恵町の夏を彩る、須賀神社の祇園祭りです。
所在地 | 須恵町上須恵511 |
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電話番号 | 092-934-0030(社会教育課) |
関連サイト | 上須恵須賀神社 「祇園山笠」 - 須恵町ホームページ |
上須恵眼療医 田原養全宅跡
江戸時代から現在に至るまで、須恵には岡(高場)眼科と田原眼科という2つの眼科の家系があります。江戸時代には、福岡藩の藩医に登用され、名声を得ていました。田原眼科は江戸時代には日本四大眼科の一つに数えられました。岡家、田原家は、天草出身の高場順世から医術を学びました。高場順世が考案したとされる目薬「正明膏(しょうめいこう)」は、須恵の目薬として昭和20年代まで盛んに作られました。
所在地 | 須恵町大字上須恵637-4 |
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電話番号 | 092-934-0030(社会教育課) |
関連サイト | 上須恵眼療医 田原養全宅跡 - 須恵町ホームページ |
正明膏