筑後市の名所・文化
伝説と史跡・文化財
約400年前から語り継がれている「羽犬伝説」と、筑後市の史跡・文化財の一部をご紹介します。
筑後市の伝説
JR羽犬塚駅前、山ノ井交差点、羽犬塚小学校正門南にあるブロンズ像や市民の森公園のモニュメントといえば・・・。そう、「羽
羽犬伝説
その1:昔この地に羽の生えたどう猛な犬が
ひとつは、昔この地に羽の生えたどう猛な犬がいたというものです。「羽犬は旅人を襲ったり家畜を食い殺したりして住民から恐れられていた。天正15年(1587年)4月、天下統一をめざす豊臣秀吉は薩摩の島津氏討伐のため九州に遠征、この時羽犬によって行く手を阻まれた。大軍を繰り出しやっとの思いでそれを退治した秀吉は、羽犬の賢さと強さに感心し、この犬のために塚をつくり丁寧に葬った」とされています。
その2:羽が生えたように跳び回る犬を秀吉が
もうひとつは、九州遠征に羽が生えたように跳び回る犬を秀吉が連れて来たというものです。「その犬は、この地で病気にかかり死んでしまった。大変かわいがっていた秀吉は悲しみに暮れ、それを見かねた家来たちは、その犬のために塚をつくり葬った」とされています。
所在地 | 筑後市大字羽犬塚521ほか |
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アクセス | JR鹿児島本線「羽犬塚駅」 付近 |
関連サイト | 羽犬伝説と羽犬の塚|筑後市公式ホームページ |
羽犬塚
JR羽犬塚駅前の羽犬
史跡・文化財
水田天満宮・恋木神社
水田天満宮は、菅原道真公をまつるお宮で、鎌倉時代の嘉禄2年(1226年)に菅原為長が、後堀河天皇の指示で建てたといわれています。今の本殿は、江戸時代の寛文12年(1672年)に再建されたもので、太宰府天満宮の建築様式が受け継がれた、美しい景観をもつ建物です。 菅原道真公の子孫が代々、太宰府から隠居してくるなど歴史的にも重要な場所であり、地域文化をも担ってきた水田天満宮。本殿を始めとした神社が、広く親しまれています。(昭和36年4月18日県指定文化財)
水田天満宮の境内は「水田の森」として、天然記念物の指定を受けています。参道中の石鳥居をはじめ火王水王面や狛犬、獅子頭など県指定の文化財が多数収められています。縁結びや幸福の神様として有名な「恋木神社」もあり、若者の参拝者も多く訪れます。
所在地 | 筑後市大字水田46 |
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電話番号 | 0942-53-8625 |
アクセス | JR「羽犬塚駅」から車で5分、徒歩で20分、JR「新船小屋駅」から車で8分、九州自動車道「八女IC」から車で10分 |
関連サイト | 水田天満宮・恋木神社 公式ホームページ |
水田天満宮
恋木神社
山梔窩(さんしか)
山梔窩(さんしか=くちなしのや)は、幕末の勤皇志士・真木和泉守保臣が久留米藩の藩政改革に失敗して謹慎させられ、9年9カ月を過ごした家です。1852年5月17日、大鳥居家の一隅に4畳半と4畳の家を建て移り住みました。1862年2月16日、藩の許可なく薩摩へ脱出するまで、この地で門弟教育に従事し、多くの倒幕・尊王運動家を世に送り出しました。 山梔窩という名の由来は、庭にクチナシ(梔)が植えられたことからとも「口なし」(藩への発言を止められた自分の立場)からとったともいわれています。
所在地 | 筑後市大字水田242-1 |
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アクセス | JR鹿児島本線「羽犬塚駅」から車で10分 |
関連サイト | 山梔窩(さんしか)|筑後市公式ホームページ |
欠塚古墳
筑後地方には、岩戸山古墳や石人山古墳など、大和朝廷に対して乱を起こした筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)に関係する古墳が、数多く残されています。市内前津地区にある「欠塚古墳」もその一つ。石室内からは、ガラス玉や円筒埴輪(えんとうはにわ)、須恵器(すえき)などが多数出土し、これらの出土品からこの古墳が造られたのは5世紀後半あたりではないかということが分かりました。古墳が小型であることや、古代の勢力関係などから、この地域を守っていた、磐井配下の豪族の墓ではないかと考えられています。
所在地 | 筑後市大字前津1784-8 |
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関連サイト | 欠塚古墳|筑後市公式ホームページ |
古墳公園の頂上に復元された石室
石人山古墳の武装石人
今見ると、石のかたまりにしか見えない、石人山古墳の名の由来になっている「武装石人」。現在のように囲いがされ、人が触れることができなくなる前まで「武装石人」は、手足や腰、肩などに痛みがある人が、石人の同じ所を打つとそれが治るといわれ、打ったりなでたりされてきたからなのです。
所在地 | 筑後市大字一条 |
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関連サイト | 石人山古墳の武装石人|筑後市公式ホームページ |
写真右:『歴世服飾考』に載っている最も古い石人模写図
滑石経(かつせききょう)
県の重要文化財に指定され、平安時代の仏教文化を現代に伝える「滑石経」。滑石とは、俗にオンジャク石と呼ばれる石のことで、その白くやわらかい石の両面には、約1.5センチメートル幅の罫線に沿って法華経の経文が規則正しく刻まれています。「滑石経」が発見されたのは、今から150年ほど前の江戸時代後期のこと。平安時代後期のものだと考えられています。全国でも数ヵ所の出土例しかない「滑石経」は、平安時代の「筑後」を知る上で貴重な「遺産」の一つだと言えるでしょう。
<筑後市郷土資料館>
所在地 | 筑後市大字水田17番地2 |
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電話番号 | 0942-53-8246 |
関連サイト | 滑石経(かつせききょう)|筑後市公式ホームページ |
滑石経(経文が表と裏にびっしりと刻まれています)
市郷土資料館 所蔵(昭和30年県有形文化財考古資料指定)
熊野神社の眼鏡橋
参道の放生池(ほうじょういけ)に架かる石造りの長さ(平面)5.25m、幅3.01mの太鼓橋。欄干(手すり)2カ所に、熊野神社の眼鏡橋は元禄10年(1697年)=江戸時代=につくられたものとわかる文字が刻み込まれています。「県下2番目に古い眼鏡橋」ということになります。
<熊野神社>
所在地 | 筑後市大字熊野730 |
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アクセス | JR「羽犬塚駅」から車で約10分、九州自動車道「八女IC」より車で約15分、西鉄バス55番「久富」から徒歩約10分 |
関連サイト | 熊野神社の眼鏡橋|筑後市公式ホームページ |
坂東寺の石造五重塔
鎌倉時代貞永元年(1232年)に造られた塔は高さが246センチメートル、ほぼ正方形の笠石を5段重ね、最上部に宝珠形の石をのせ、塔身には密教の教えである五大(空風火水地)と種子の四転(発心、修行、菩提、涅槃)を示す梵字が刻まれています。 この貞永の五重塔(貞永塔)には、ひとつの逸話が残されています。参道を挟み、貞永塔の反対側に立つ貞永塔そっくりの塔。この塔には「天保3年(1832年)、久留米藩第9代藩主有馬頼徳公(月船公)が、複製品(天保塔)をもとの場所に建てた」と刻まれています。藩主邸の庭で使用された貞永塔は、その後「もとの坂東寺に帰りたい」と、夜な夜な泣いたといいます。この逸話にちなんで、貞永塔は「夜泣き塔」とも呼ばれています。
<坂東寺>
所在地 | 筑後市大字熊野1012-1 |
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アクセス | JR「羽犬塚駅」から徒歩約30分 |
関連サイト | 坂東寺の石造五重塔|筑後市公式ホームページ |
光明寺の石造九重塔
「石造九重塔」は境内に2基あり、いずれも高さ3.3m、軸の部分の太さは49センチメートル×47センチメートル、軸部から大きさが違う笠が9枚、層状に広がっています。 東側に立っている塔は鎌倉時代につくられたとみられています。西側の塔には「嘉永二年己酉年二月吉辰」の日付もみられることから、実はこの塔は嘉永2年(1849年)に複製されたものであることがわかります。なぜ複製塔が建てられたのか―。これはいまだに謎のようです。
<光明寺>
所在地 | 筑後市大字津島807 |
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アクセス | JR「船小屋駅」から徒歩10分 |
関連サイト | 光明寺の石造九重塔|筑後市公式ホームページ |